2012年12月20日木曜日

気の流れ


人は無我の境に入れば、相手の動きを正しく察知することができるようになる。この直覚力は武道において特に必要とされる。先人は「先々の先」「先」「後の先」などということを述べているが、これは意識してやるのではなくて、自然に無意識に出来なくてはならぬ。すなわち彼我、勝敗を超越した絶対不動の心から発する、一体和合の気の流れにより、自己の動きの中に相手を入れてしまう至妙境において、何の分別をはさむ余地もなく、機に応じてすらすらと出て来る動きをいうのである。かくして自己の動きに相手が自然と知らず知らずついて来るようになるのである。彼の有名な兵法者鬼一法眼もことことについて、「来らば即ち迎え、去らば即ち送る。対すれば和す。五五住なり、二八十なり、一九十なり。即ちこれを以って和すべし云々」という言葉で表現している。これは、気の流れに従って体を裁いて行く動作の表現であって、相手が来るのを待っていて迎え、然る後送るのではなく、相手が出て来なくてはならぬ気持ちにまで追い込み、これを捌いて行く極処を説いているのである。こうした気の流れについて、言うは易いが、真の会得は勿論一通りや二通りの修業で得られるものではなく、先ず姿勢、間合い等形を正しくすることから始めて、不断の鍛錬により遂にはあらゆる面が渾然一体となる境地に達するのである。(「合気道」 植芝吉祥丸)


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