2016年3月5日土曜日
2016年2月20日土曜日
手の業 その1 (「武道」植芝守髙)
技法真髄 第五 手の業 その1
手と足と腰の、心よりの一致は心身を守るには最も必要な事で、さらに人を導くにも、また導かれるにも、手によってなされる。一方で導き、一方で倒す、これをよく理解しなければならぬ。敵が引こうとした時には、まず敵をして引く心を起こさしめ、引かすべく仕向ける。武術の鍛錬が出来てくると、敵よりも先に、敵の不足を満足さすべく、こちらから敵の隙、即ち不満の場所を見出して業をかける。この、敵の隙を見出すのが武道である。しかし、真の武道は、敵を殲滅するだけでなく、その敵対する所の精神を、敵自ら喜んで無くさしめる様に為さねばならぬ。和合の為に為すのが真の武道である。心身は水と火の妙の如し。体と精神とが一如となって和合する様、練磨怠るべからず。敵が我の(左)手首を取らんとすれば、左足を引き、取らんとする手をもって敵を導き、一方の手をもって首へ打ち下ろすべし。
手と足と腰の、心よりの一致は心身を守るには最も必要な事で、さらに人を導くにも、また導かれるにも、手によってなされる。一方で導き、一方で倒す、これをよく理解しなければならぬ。敵が引こうとした時には、まず敵をして引く心を起こさしめ、引かすべく仕向ける。武術の鍛錬が出来てくると、敵よりも先に、敵の不足を満足さすべく、こちらから敵の隙、即ち不満の場所を見出して業をかける。この、敵の隙を見出すのが武道である。しかし、真の武道は、敵を殲滅するだけでなく、その敵対する所の精神を、敵自ら喜んで無くさしめる様に為さねばならぬ。和合の為に為すのが真の武道である。心身は水と火の妙の如し。体と精神とが一如となって和合する様、練磨怠るべからず。敵が我の(左)手首を取らんとすれば、左足を引き、取らんとする手をもって敵を導き、一方の手をもって首へ打ち下ろすべし。
心身の変化の理 (「武道」植芝守髙)
技法真髄 第一 心身変化の理
敵という者は、自己の心身を誠に作り上げる為の修行鍛錬の賜物と思い、敵が剣を以て我に向かう時は、その生死の巷においてよく心身を落ち着け、道に従い敵に乗ずる隙を与えず、自己の思うままに敵の心を抑え、自己の思うままに時を作り、間髪を入れず真直ぐに、斜めに、また自己の思う通りに心身の心線を起こし、全身一致の誠の剣と化して突進し、敵を滅却させるべきことを思う。是が大和魂たる日の本経津(ふつ)の魂の御剣の御儀と思考する。
敵という者は、自己の心身を誠に作り上げる為の修行鍛錬の賜物と思い、敵が剣を以て我に向かう時は、その生死の巷においてよく心身を落ち着け、道に従い敵に乗ずる隙を与えず、自己の思うままに敵の心を抑え、自己の思うままに時を作り、間髪を入れず真直ぐに、斜めに、また自己の思う通りに心身の心線を起こし、全身一致の誠の剣と化して突進し、敵を滅却させるべきことを思う。是が大和魂たる日の本経津(ふつ)の魂の御剣の御儀と思考する。
剣は武夫の魂なり。剣は宇宙真性の現われなり。剣をいたずらに抜く時は、自己の魂をもてあそぶものなり。
誠の勇、誠の智、誠の愛、誠の親の四つの魂を一つにして剣の下に修し、精魂の磨き、身体の磨きにより、全心身は剣と化し、剣光を放つべし。
武を練れば武魂を養うに適する、誠忠にして善美なる肉体を作り上げることができる。
2016年2月4日木曜日
手の業 その2 「武道」植芝守髙
技法真髄 第五 手の業 その2
我が心の隙より現われし理を悟って真正面より来る敵の槍の真中心に、入身転換法の法によって無事にその囲みを破って安全地帯へ出づべし。周囲を全部敵に取り巻かれたる時も入身転換法の法によって、破れざる姿勢で敵を抑えるべし。法線を知るべし。邪道に練磨すべからず。神より頂きたる小宇宙を徒に破るべからず。
我が心の隙より現われし理を悟って真正面より来る敵の槍の真中心に、入身転換法の法によって無事にその囲みを破って安全地帯へ出づべし。周囲を全部敵に取り巻かれたる時も入身転換法の法によって、破れざる姿勢で敵を抑えるべし。法線を知るべし。邪道に練磨すべからず。神より頂きたる小宇宙を徒に破るべからず。
敵を倒すことが武術の稽古なり。この道理をよく汲み、体に画き出して稽古すべし。大勢の時は一人と思い、一人の時は大勢を思い戦うべし。一を以て万に当たる理を知り、隙を与えざる様為すべし。心身に寸隙なき大和魂の誠を作り上げ、上中下一致前後左右の敵を誠の入身転換法の合気により心より征し伏す稽古が必要である。超非常時に入り世界全部が敵となりし時、この心技が特に必要である。心許すべからず。
2016年1月28日木曜日
手の業 その3 「武道」植芝守髙
技法真髄 第五 手の業 その3
神の心を人の肉体に建設し、闇を照破する光の如く更に更に深く稽古を積まねばならぬ。
古人の極意の書に「太陽の光が襖を開けるともなしに差し入る如し。武術もそうでなければならぬ」とあるも、襖でも壁でも岩でも何でも照破して通り抜ける様な光となる様修すべし。又、道は魂も身も物も皆、主神のものなり。御稜威により現世幽界の両界に生通し、武夫の本分たる武技を達成す。現世に修し、幽界に修し、繰返しつつ限りなく長久に両界を修す。この精神こそ現世に誠忠し、幽世に入りて益々誠忠を尽くすべきを本分とす。
神の心を人の肉体に建設し、闇を照破する光の如く更に更に深く稽古を積まねばならぬ。
古人の極意の書に「太陽の光が襖を開けるともなしに差し入る如し。武術もそうでなければならぬ」とあるも、襖でも壁でも岩でも何でも照破して通り抜ける様な光となる様修すべし。又、道は魂も身も物も皆、主神のものなり。御稜威により現世幽界の両界に生通し、武夫の本分たる武技を達成す。現世に修し、幽界に修し、繰返しつつ限りなく長久に両界を修す。この精神こそ現世に誠忠し、幽世に入りて益々誠忠を尽くすべきを本分とす。
2016年1月2日土曜日
意識その2
相手を動かすために自分の肉体を動かすのではない。相手を動かそうと自分の肉体を動かす(作用する)と、相手の肉体に反作用が生じ、相手は抵抗する。
自分の肉体を動かすのではなく、意識を相手の肉体に直接働きかけて相手の肉体を動かす。そこにはもはや「自分」はいない。相手と一体化した合気が存在する。
自分がいなくなる。本気でいなくなれるか?自分を捨てられるか?自己犠牲の心を持つことができるか?
自分の肉体を動かすのではなく、意識を相手の肉体に直接働きかけて相手の肉体を動かす。そこにはもはや「自分」はいない。相手と一体化した合気が存在する。
自分がいなくなる。本気でいなくなれるか?自分を捨てられるか?自己犠牲の心を持つことができるか?
意識その1
体の意識を体の外に出せば、身体操作はただの意識操作になる。
相手の体の中を自分の意識が感じているという世界。
自分の体だと思って相手の身体を直接操作する。「意のままにする」
人間の意識は肉体の中にあるのではない。脳とは肉体の外にある意識と肉体をつなぐ装置である。脳は単なる意識を受ける受信装置に過ぎず、意識自体は時空を超えた特別な場所に存在している。
相手の体の中を自分の意識が感じているという世界。
自分の体だと思って相手の身体を直接操作する。「意のままにする」
人間の意識は肉体の中にあるのではない。脳とは肉体の外にある意識と肉体をつなぐ装置である。脳は単なる意識を受ける受信装置に過ぎず、意識自体は時空を超えた特別な場所に存在している。
2015年12月13日日曜日
2015年11月21日土曜日
肚
肚で動きの方向を出す。肚で仕事をする。(目で方向を出すのではない。手で仕事をするのではない)
足元には水面の波紋のように気の輪が広がっていく。相手には常に下方から上方に向かう。相手が重心(軸)を下げてきたら、当方は自分の重心(軸)を相手よりさらに下方になるように、下げる。
足元には水面の波紋のように気の輪が広がっていく。相手には常に下方から上方に向かう。相手が重心(軸)を下げてきたら、当方は自分の重心(軸)を相手よりさらに下方になるように、下げる。
2015年7月12日日曜日
合気道と気心道
術者は心の底から相手のためを思います。軽いノリで思うのではなく、全身全霊で思うのです。そこまでの気持ちになれないと言う前に、どれほど自分が実際には傷ついているのかに気づき、相手もまた同じであることに気づけばよいのです。そうすれば、自分のトラウマを原動力として、他人のためになろうとする思いが湧いてくるのです。一心に相手の健康や幸福を願う。そして、その心になりきって施術します。すると、術者という個人の力をはるかに超えた、宇宙太極の気が働きます。(遠藤喨及「気心道」)
合気道は相手を倒すことが目的ではなく、相手の健康や幸福を願い、それを実現すること。
合気道は相手を倒すことが目的ではなく、相手の健康や幸福を願い、それを実現すること。
合気の手2
トリは、掴まれた手に対して、前後上下左右全く抵抗を与えないで、体を相手に寄せる。掴んでいる人間側(ウケ)は、掴んだ手に対して抵抗が来ないと、抵抗がないからこそ体を動かすことができなくなる。ヘビにに睨まれたカエルの状態になってしまう。
2015年7月11日土曜日
合気の手
手の指を目いっぱい伸ばす、広げることがよいと言われるが、指と指の間に水かきがあると想像し、その水かきを最大限張っている状態をイメージすると良いかもしれない。さらに、指先にカエルのように吸盤があると想像すると、指先に意識を集中させることが容易になろう。
2015年6月21日日曜日
呼吸法
肚はいわゆる密息の方法で、吐くときも吸うときにも腹を張って帯に密着させる。その状態で、肚と手の指先とを「結ぶ」。結ぶ為には、肚と手の指先の間の筋肉を完全に緩める必要がある。肩は完全に弛緩させる。緩めれば緩めるほど、肚と指先が気のエネルギーでダイレクトに「接続」される。気のエネルギーで肚と指先が接続できれば、物理学の力の次元とは全く違う別の力が発現し、筋肉を緩めているのにもかかわらず、肚の底から出る力が手の指先にダイレクトに発現する。
2015年6月20日土曜日
腰の構え
腰が引ける、へっぴり腰、腰抜け、弱腰、腰が入っていない、これらは全てもともと武道の構えに関する言葉だろう。1ミリでも腰が引けると体の軸が崩れる。腰を崩さない方法としては、「うんちがまん」「おしっこがまん」をイメージして腰回りの筋肉を使えば、自然に腰が入った構えになり、腰の縦軸をギュルギュルと締め上げる意識が持てるようになる。
2015年6月1日月曜日
2015年5月16日土曜日
力を抜くということ
合気道では「力を抜け」とよく指導されるが、この「力を抜く」という意味がよくわからない。本当に全身を脱力すれば、骨格が筋肉で支えられていない状態になるので、へなへなと地べたに倒れこむ。実際には立った状態を維持して技をかけている(=相手に作用を与えている)訳だから、少なくとも骨格を支える筋力は使っている、即ち「力は(完全には)抜いていない」。どうも、表現の問題のような気がするが、一つの仮説として、上記の「力を抜く」の「力」とは、筋肉の「肉」の部分の力を抜くということではないだろうか。筋肉は肉と腱で構成されるが、腱もわずかながら伸縮する。一般的に力をいれろと言われたら肉の部分を収縮させるが、武道として力を入れる箇所は肉ではなくて「腱」であるかもしれない。即ち「力を抜け」と言われたら、それは「肉の力を抜いて、腱の力を使え」という意味かもしれない。この仮説に立てば、決してムキムキではないスリムな体格の高段者が、恐ろしく強靭なパワーを発揮することに納得がいくものだ。
2015年4月21日火曜日
気結び
(合気道修練館越谷道場HPより)
斉藤守弘先生から聞いた話ですが、「気結び」とは、「合わせること」だそうです。
この「合わせ」には、段階があります。
最初の段階は、相手に合わせます。
次の段階は、自分に合わせます。
自分に合わせるとは、自分の中心を定めることです。
すなわち、いかなる場合でも、自分の構えを崩さないことです。
自分の構えが崩れた時、敗北するものです。
自分の中心が乱れない限り、そう簡単に敗れるものではありません。
自分の構えが乱れるということは、相手の気に自分の気が吸収されたからです。
意識を相手ではなく、自分に向ければ、自分の中心は定まります。
そして、最後の段階が、宇宙に合わせます。
つまり、自分と宇宙が一体化するのです。
翁先生は、「宇宙即我」と言っていました。
斉藤守弘先生から聞いた話ですが、「気結び」とは、「合わせること」だそうです。
この「合わせ」には、段階があります。
最初の段階は、相手に合わせます。
次の段階は、自分に合わせます。
自分に合わせるとは、自分の中心を定めることです。
すなわち、いかなる場合でも、自分の構えを崩さないことです。
自分の構えが崩れた時、敗北するものです。
自分の中心が乱れない限り、そう簡単に敗れるものではありません。
自分の構えが乱れるということは、相手の気に自分の気が吸収されたからです。
意識を相手ではなく、自分に向ければ、自分の中心は定まります。
そして、最後の段階が、宇宙に合わせます。
つまり、自分と宇宙が一体化するのです。
翁先生は、「宇宙即我」と言っていました。
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